ロボの思索する記事「僕にとっての哲学とは」
僕は妄信は愚か者がすることだと考えている。僕はつねに自分の考え、哲学を持つことが大事だと考えている。なぜなら、妄信すると視野が狭くなり、考え方も極端になるからだ。つねに全体を把握することが大事だと考えている。
— ロボ (@robo87539319) 2019年3月9日
注意:この記事は自分の思索した結論や考えなどを記事にしたものです。ですから、まとめがありません。もし、読む場合は気楽にこんな考えもあるんだなぁぐらいで読んでください。そして、間違いやそれは正しくないと思った方はTwitterのDMやリプか記事のコメントのほうで質問をください。そして、議論をしたい方はTwitterのリプで議論してもいいし、記事のコメントでも大丈夫です。
・目次
哲学とは何か。
哲学の出発点。
フィロソフィアについて考えたこと。
暇の大切さ。
哲学とは何か。
15歳のころ、僕はこの疑問を哲学書を読む前に考えたことがある。哲学とは何かについて僕はこう結論に達した。
「哲学とは水である。人間は水を欲し、水を飲む。つまり、水を飲む行為が考えるということなのだ。」
僕はこのとき、哲学に対して驚きを感じた。そのときの驚きはフィロソフィアの哲学にある驚きの概念だと現在の僕は考えている。
哲学の出発点。
僕は権威のいうことを妄信しないことが大切であると考えている。つまり、権威の言葉が正しいことであるかどうかを自分で思考し、判断し、行動するのが大事なのである。それが、哲学の出発点でもあり、思索の出発点でもあるのだ。
フィロソフィアについて考えたこと。
フィロソフィアとはギリシア語の知恵(ソフィア sophia)と愛している(フィロス philos)との合成語で、知恵を愛することという意味である。
アリストテレスは、「人間はすべて知恵を愛するものである」と述べているが、僕はこの言葉が正しいかどうかを考えた。
このときに考えたことは2つある。
①すべての人間は知恵を愛するというがそれは正しいのだろうか。
②もし、この言葉が正しいのであれば、なぜ、人間はすべて知恵を愛するのか。
①について、僕は困ったことにすべての人間にこの質問はできない。なぜなら、僕はすべての数えきれない人間に対してこの質問をすることなど膨大すぎてできないからである。
だが、こう考えたらどうだろう。人間はすべて知恵を愛さないものであると逆に考え、そこに矛盾が生じればアリストテレスの言葉は真となり、正しくなる。
だから、この矛盾を探すために思索した。
そして、この矛盾はすぐに見つかった。
もし、人間はすべて知恵を愛さないのであれば、一人の人間が知恵を愛しているという例外があれば良い。僕は知恵を愛している。僕は人間だ。
つまり、人間はすべて知恵を愛さないのであれば、僕が知恵を愛していることが矛盾となるのではないかと考えた。
そして、僕はこの①に対して正しいと感じ、②へと考える対象を移した。
②について僕はなぜ人間は知恵を愛するのだろうかと考えた。僕はしばらく考えたがこう結論に達した。
「なぜ、人間は知恵を愛するのか。それは、楽しいからである。知恵とは知ることからはじまり、知るということが楽しいからなのではないか。つまり、それが知恵の本質であると考える。」
僕は知る楽しさがあるから知るのである。そして、僕は人間が知恵を愛した積み重ねが哲学なのではないかと考えた。
暇の大切さ。
古代ギリシアで哲学や芸術や競技などの文化が開花した理由としてはギリシアの人々は暇だったからのではないかと考えている。つまり、schole(スコレー)(ギリシア語で閑暇を意味する)である。
古代ギリシアの市民は奴隷に労働や家事などを任せて、自由で暇な時間を持つことができた。人間は暇になるとその暇な時間をつぶすことを考え始めるのではないかと考えている。